虐待・犯罪から考える、社会の一員としての責任
こんばんは、もぐみかでございます。最近妹に子どもが生まれ、私はめでたく叔母になりました。年齢を実感して少し切なくなりつつ、甥の可愛さにノックアウトされる毎日です。
それが理由なのかはわかりませんが、毎日のニュースを見る目が変わりました。近頃理不尽な犯罪や薬物事件、不倫事件等々が話題になり、たくさんの感情が渦巻いていますが、どんなニュースに対しても湧いてくる感情は一貫して「やりきれない」になりつつあります。その感情は、被害者はもちろんなのですが、特に加害者にも向けられるもののようです。「辛かったよね。誰にも助けてもらえなくて」と。
特に川崎市の少年の事件や虐待のニュースは、耳にするたびに心が痛みます。被害者やその関係者への気持ちはもちろんなのですが、どうしても加害者にも同情してしまうのです。彼らはこれまでどう生きてきたのでしょうか。人を傷つけることに持つべき抵抗を持たぬようになってしまったその原因は、一体何なのでしょうか。彼らを生み出してしまった環境は、一体どのようなものなのでしょう。
アルフレッド・アドラーによると、どんな経験をしてきたって、最終的にその経験をどう腹落ちさせるかは、自分自身でしか決められないそうです。さらに成人していれば、最終的な責任はもちろん自分自身にあります。しかしこれは、本人にしか責任はない、という意味では決してない、と思うのです。
例えば、虐待。世代間で連鎖するとよく言われます。過去虐待を受けてきたことがトラウマになっていて、自分で自分がコントロールできない母親。もちろん、虐待自体は許される行為ではありません。母親が悪くないとは言いません。ただ、この問題を解決するためにどんな方法でも使用して良いとするならば、その母親の育った環境を改善するのが最善の方法と考えられるのではないでしょうか。母親がトラウマを持ってしまうような環境が、もし無かったら?虐待もなくなっていたかもしれません。少なくとも、発生する可能性は低くなるはずです。つまり、罪を犯してしまうような人を作った環境・社会にも、ある程度責任があるのではないか、ということです。
もしかしたら、少しの変化で良いのかもしれません。例えば、パパAさん、ママBさん、子供Cさんの3人家族なら、
- 会社の上司に褒められたAさん。気分は上々
- Aさんがそれを明るく妻Bさんに報告
- 妻Bさんは夫Aさんが幸せそうで嬉しい
- 妻Bさんは子供Cさんに優しくする余裕が持てる
どうでしょう?これだけで、あるいはこれが連続するだけで、虐待は少しは防げるかもしれないと、そう思うのです。また、こういった環境・社会作りは、私たちにもできるのではないでしょうか。誰もが「会社の上司」になり得ると、私は思います。
冒頭で妹の子供の話をしましたが、妹もやはり子育てや夫との関係に悩み、「頑張りたいけど頑張り方がわからない」とよく疲れてしまっています。母親の皆さんは、私が想像する以上に過酷で、大きなプレッシャーと戦っているのでしょう。しかしそこで彼女らの「環境」になり得る私たちが彼女らを遠巻きにしてしまってはいけない!と思うのです。彼女の負の感情を作ってしまっている原因が、ちょっとは自分にもあるのかも。もしかしたら、一言声をかけるだけで気分が良くなるのかも。と、できることを少しずつでも考え・行動していけるといいなと思います。
ぜひ「みんなで子育て」実現できるといいな!と。使い古されたセリフではありますが、やはり未来は子どもたちのためにあるものだと思います。その未来がハッピーなものになるかどうかは、その環境を作る私たちにかかってるのですよね。
優しさが連鎖して、どんどん膨らんで、子供達の未来が少しでもハッピーになりますように。
(参考・関連)
特に鵺さんの記事は、読んでいて心が動かされました。
共感しすぎたから貼っとく笑