建築を通して「目的が全てを創る」と学んだ20歳
こんばん、わー。もぐみかです。なんか寒いらしいですね週末。私東京行くんだけど無事往復できるのか心配。。。楽しみなんだけど引きこもりたい。お布団に入ったまま本読んで寝落ちしたい。そんな感じ。
今日は、今週のお題に挑戦。
高専5年、専門は建築。
20歳になったとき、私は高専(高等専門学校の略。端的にいうと高校と短大がくっついた学校)の建築学科で学ぶ最後の年だった。
「建築」という分野の、人間工学や機械産業の発展からくる技術的側面と、マスターベーション的な芸術という側面の、主に後者の部分に嫌気がさし、離れるべきかいなかに悩まされていた。
私は「人が快適に過ごすための建築という技術」を学ぶために入学したはずなのに、「クライアント(それが公共物であれ個人であれ)の希望をどう叶えるか」というアプローチについて、なぜ誰も言及しないのか。その設計図(結果)にたどり着いた「原因(課題)」がわからぬまま、「いい建築だ」と言えるのはなぜなのか・・・。
今考えれば、こういった憤りのような、呆れのような感情で、結局は続けるのか辞めるのかかはっきりと決めぬまま、自然に建築から離れてしまったように思う。
当時はこの感情を言葉にできるほどはっきりと認識できていなかった(今のこの認識でさえ、当時の私から見ればずれているのかもしれないが。)。ただなんとなく、納得できなかったのだ。こんなに大きくお金のかかることに対して、なぜ目的の共有なしで語れてしまうのか?技術や理論のインストールのみを淡々と進めることができてしまうクラスの雰囲気が、不思議で仕方なかった。
建築はどうやってデザインされているのか
建築自体はとても魅力的だ。今でもそう思う。旅行に出れば最も興味がわくのは、現地の人の文化と建物の因果関係であるし、大きな建築物を見ればその計算されたフォルムの美しさに感動する。そこにはほとんどの場合「原因と結果」があり、清々しい。衣食住を豊かにするため(原因)に構築され発展してきた文化(結果)は一生かけても学びきれるものではなく、これからもその深さで一生かけて楽しませてもらおうと思っている。
一方で、やはり「意味不明」と感じることも多い。建築家の自己満足にしか見えない建物には気持ち悪さを感じてしまう。ワインの良し悪しなんてわからないくせに評論家気取りでテイスティングしちゃう人に感じる、あの気持ち悪さに似ている。しかしそういった建築物の設計者(建築家)が割と有名だったりする。なぜ?エゴを形にできることへの感動がそうさせているのだろうか。
form follows function
まぁ、当時の私の側に、それだけの情報を処理するだけの能力もしくはインストールするだけのキャパシティがなかっただけ、とも考えられる。それこそ「原因と結果」なのかもしれない。
当時「へぇ」としか感じることのできなかった、ル・コルビュジェやルイス・ヘンリー・サリヴァンの言葉も、今ならすんなりと納得できるのだから。
「住宅は住むための機械である」
- 作者: ル・コルビュジェ,吉阪隆正
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「形態は機能に従う」 ルイス・ヘンリー・サリヴァン
そんな流れで建築から離れてしまった私は現在、広告業を生業にしている。「クライアントの希望をどう叶えるか」という課題に最も深く取り組める仕事だと実感しながら。
また、広告を創ることで課題を解決しようとする際、思い出すのは「目的だ全てを創る」というセンテンスである。そういった意味で、建築を学んだことが活きている。その行為自体ではなく、建築を通じて間接的に「目的が全てを創る」と学ぶことができた。素直に、私の財産だと思う。
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